若衆はなぜ存在したのか

染谷記

(奥村政信筆「佐野川市松」1756年、『歌舞伎絵大成』昭和5年刊より)

若衆を授業で取り上げていると、学生から、先生はなぜ若衆に興味を持っているんですかと聞かれることがあります。

答えに窮することも多いのですが、改めて考えてみますと、人間の中で最も美しいから、ということになるでしょうか。

西鶴も「世界一切の男美人なり。女に美人稀なりと。安倍の清明が伝へし」(『男色大鑑』巻一の三「垣の中は松楓柳は腰付」)と述べています。理由は女性は化粧などに頼って自然でないから。つまり若衆はナチュラルに美しい、というのです。

私もほぼ同感ですが、もう少し踏み込んで言うと、若衆は美しく見せようとしていないからこそ、美しいのだと思います。

かの坂口安吾も、美しく見せようとしたものに美はないと言ってます(『日本文化私観』)。美しく見せようとすると、そこに相手に対して媚びると言いますか、甘えると言いますか、美しくない精神がどうしても纏わりついて、それが見た目の美も減じさせてしまうように思います。

むろん、若衆も美しさを競いますが、そこには強さを追い求める精神が先行しています。つまり、若衆美というのは強さを追い求める中で自然と生まれる美しさなんですね。

だとすれば、女性もそうした強さを追い求める中での美なら、それは若衆に匹敵する美しさを具現することになると思います。現代でも、スポーツ選手を見ていると、男女を問わず美しいと感じることがありますね。彼ら彼女らは、ことさら美を追求していないけれど、いやいないからこそ、そこに美しさが生まれてくる。若衆の美とはそうしたものに近いと思います。

江戸時代の文学や絵画に描かれる若衆は、そうしたナチュラルな美を追求したものです。

加えて、ナチュラルだからこそ、盛りが短いのです。パッと咲いたかと思うと、あっという間に散ってしまう、桜に似ています。それは女性の美しさよりも、もっと短く儚いものです。

その刹那の美に、限りない愛着が生じます。それが若衆への恋なんですね。

古今東西の芸術家は、皆この美に気づいています。だからこそ、それを追い求めたんだろうと思います。芸術家は、タッジオに魅せられたアッシェンバッハ(『ベニスに死す』)なんですね。

目の前にビョルン・アンドレセン(タッジオを演じた美少年)が現れて、気もそぞろになって後をついていかない人間に、芸術や文学を論じるのは無理だと最近とみに思います。

次の絵も佐野川市松の絵です。絵師は鳥居清倍(きよます)と考えられます(『歌舞伎絵大成-元禄期』)。

ちなみに、この『歌舞伎絵大成』は昭和5年、中央美術社から出版されました。
その中に以下のような版画があって、製本されているんですね。一般的な印刷かと思っていましたら、裏を見ると版木の跡がはっきりと残っています。版画よりも写真の方がまだ高かった時代なんでしょうね。ちなみに、表紙は川瀬巴水の師匠であった鏑木清方が描いた若衆姿です。

以上です。

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