李如松の男色

染谷記

(韓国の南端にある南海の夕暮れ。南海は朝鮮の『源氏物語』と言われる『九雲夢』(グーウンモン)を書いた金萬重が流刑にあって亡くなった場所でもある)

 いま、韓国の文学作品で、朝鮮時代に書かれた野談(ヤダム)を読んでいます。日本で言えば説話ということになりますが、朝鮮の両班(学者+政治家の特権階級)が自身の興味をもとに話を集めたものです。内容は様々な階層のエピソードで多様性にあふれています。

 この、野談の代表作と言えば、『於于野談(オウヤダム)』(一六二〇年頃成立、柳夢寅(ユモンイン))、『渓西野談(ケーソヤダム)』(一八三〇年代成立、李羲準(イフィジュン)/李羲平(イフィピョン))、『青邱野談(チョングヤダム)』(一八四三年、金敬鎮(キムキョンチン)の三つになります。

 読んで純粋に面白いのは、やはり最初の『於于野談』ですね。成立時期を見ていただければ分かるように、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で日本との絡みも多く、戦場となってカオス化した朝鮮の姿が描かれているからです。ただ、他のものも面白い話題が多く取り上げられています。

 いま、読んでいますのは、二つ目の『渓西野談』ですが、この中に李如松の男色の話が出てきます。

 李如松(リジョショウ)は中国は明の将軍です。今述べた、壬辰倭乱で朝鮮が日本に侵略された時、朝鮮王朝は明に助けをもとめます。その明から朝鮮に兵が送られるのですが、それを統率したのが、この李如松です。李如松は最初に、ピョンヤンで日本の小西行長を撃退して破竹の進軍を続けますが、その後膠着状態に陥って、日本との和議をはかり、一端日本軍を押しとどめます。(その後、日本は再度侵略を試みます〈慶長の役〉が、その時に李如松は参戦しておりません)

 李如松についての朝鮮での評価は二分されていて、朝鮮の王朝などの上層部では、国の恩人として、比較的高い評価を得ていますが、中人以下の庶民では悪人として描かれることも多くあります。どうして低い評価に甘んじたかと言いますと、李如松は戦果をあげ、多くの日本兵の首を取って中国に報告をしたのですが、その中には朝鮮の人々のものもかなり含まれてたらしいのです。つまり水増しをして本国に報告していたと・・・。その通りなら酷い話ですね、ま、真偽のほどは分かりませんが、ともかく朝鮮の庶民には、そう思われていたらしいのです。

 説話的には、こうした毀誉相半ばする人物の話は面白くて、この李如松は朝鮮説話に様々な形で登場します。
 そこで『渓西野談』の男色話ですが。。。こんな話です。

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 李如松が朝鮮にやって来た時に、琴何某という女性と馴染になったが、中国へ帰る時に金何某という訳官(通訳)と男色関係になった。金訳官の年齢は二十歳ほどで容姿端麗、李如松は彼の言うことなら何でも聞き入れた。李如松が鴨緑江(朝鮮と中国の国境を示す川)を渡る時に、遼東半島の部署に部隊の食糧を用意せよと軍令を送ったが、李如松が遼東に着いたときに食糧はまだ届いていなかった。李は怒ってその部署の長を厳罰に処そうとした。この長には三人の息子が居て、処罰の撤回を金訳官に頼みこんだ。最初は拒んだ金訳官ではあったが、父親思いの三人にほだされて李将軍に話すだけは話をしてみると約束した。李は「私は戦場で戦い抜いてきたが、かつて一度たりとも、そうした他人の情にほだされて何かを判断したことはない。しかし、私と長の息子たちの板挟みになって苦しむお前の顔を見て心が揺れた。お前の言う通りにしてやろう」と言い、遼東の長への厳罰は避けられた。
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 この後、この息子たちからの金訳官への返礼があって、それが絶世の美女との契りという何とも不思議な話に繋がってゆきます。それは長いのでここではカットしましょう。
 ま、要するに、この李如松は男色女色二道の大親分で、あっちこっちで愛人を作っていたということになります。すばらしい。( ´艸`) まぁ、軍人なので、どちらかと言えば男色なんでしょうね。その辺りの雰囲気がこの話にはよく出ています。

 ご存知のように、中国には男色の話がすこぶる多いのですが、朝鮮ではなかなかお目にかかれません。この、朝鮮の野談にも、男色の話は少ないと思います。私は色々なところに書いてますが、朝鮮の庶民層においては男色がかなりあったと思われますが、野談を書いているのは両班という特権階級ですから、そうした話を聞いても、自ずと外されたと思います。ところが、李如松は中国の方ですから、ここは問題なしと判断されたのでしょう。堂々と書かれています。

 ところで、李の愛人、金訳官はどうだったのでしょう。訳官は話を通ずるための役職ですが、通じたのは話だけじゃなかったということですね。本文には書かれていませんが、三人の息子とはどんな関係にあったのでしょうか。この三人の末弟は僧侶ですので、むむ、これはきっと何かあったはずと考えざるを得ません。李如松への進言は軍規に関わることですから、一歩間違えれば自分の首が飛びます。そんな危ない橋を、父親思いだけで動いたとするのは果たしてどうでしょう。
 ま、こうしたことを考えるには、壬辰倭乱当時の朝鮮訳官の社会的位相が大事になってきますが、これはまた長くなりますので、いずれどこかでお話したいと存じます。(12月26日の若衆研の時に時間があればお話しします)

 ということで、年の瀬ですが、来週の月曜は、若衆研忘年会です。メンバーの方、もしくはそのお友達も、ぜひご参加くださいませ。
 みなさま、良いお年をお迎えください。
 
(若衆研代表 染谷智幸)
 

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