(今年の染谷の授業のテキスト。テキストとして使用するのは、もう4回目だが、使う度に様々な発見があるので、やめられなくなっている)
私(染谷)の今年前期の授業(茨城キリスト教大学)に「日本文学」という講座がありまして、今年は『男色大鑑』(武士編)を取り上げました。面会での通常授業だったのですが、ネット(ZOOM)で若衆研の方々にもご参加いただきまして、種々、ご意見ご感想などをいただきました。この場をかりて御礼もうしあげます。
今年は『全訳 男色大鑑』(武士編、文学通信)を使っての授業でした。この作品を読み始めて、私はもう40年ほども経つわけで、いったい何度読んだやら覚えていませんが、読むたびに新しい発見があって興味は尽きません。今回もいろいろな発見がありました。
8月11日(水)が最後の授業だったのですが(こんな酷暑の日まで授業やってます!)、取り上げた作品は巻三の二「嬲り殺する袖の雪」、巻三の五「色に見籠むは山吹の盛り」です。
まず、「嬲り殺する」ですが、この作品は2年前の6月に東京の新宿で朗読劇に仕立てたものですから、私としても、また若衆研としても思い入れのある作品ですね。この作品について、学生の多くは、笹之介の葉右衛門への嫉妬を重く見て、その嫉妬という感情の恐ろしさを訴えたのですが、授業に参加したくださった大竹直子さんは、笹之介が葉右衛門に与えた「天冠(てんがん)」(使者が頭につける△の布)をなぜ笹之介が持っていたのか(フツー持ってませんよね、こんなもの)、それは日ごろからそうしたプレイ(葬式ごっご)を二人がして興じていたからだと自説を述べられました。
学生は、ええ???ってな反応で、ZOOM教室はカオス状態になりました。(うちの学生は比較的素直で純真な学生が多いもんですから、ま、そうなるのもむべなるかなですが。。。)
この葬式プレイ説については、前にも大竹さんからお聞きしていたものでありますが、改めてお聞きしても面白いことこの上なし。私も図に乗って、
染「ってことは、天冠以外にも六文銭を小道具にして貨幣プレイとか・・・」
竹「帷子(かたびら)とか、杖とかも使って、ねぇ(笑)」
染「当然、長持(昔のタンス)なんぞに、そうした葬式プレイ一式がセットになっていたんでしょうね(笑)」
もう止まりません( ^ω^)・・・
いずれにせよ、事の当否はともかくとして、笹之介が天冠をなぜ持っていたか、という一つの謎から、ここまで想像(妄想)の翼を広げられることがすごいことで、さすが妄想竹(孟宗竹)の異名をとる大竹さんならではの話でした。
今のは大竹説だったわけですが、今回、私の方も、一つ二つ新たな知見を得ることができました。
ひとつは、もう一つの短編「色に見籠むは山吹の盛り」です。この中に主馬に切られそうになった義左衛門が、主馬への思いのたけを綴った日記(七十枚の薄紙)を主馬に渡す場面がありますね。主馬はそれをすぐに主君に奉じて切腹を願い出ますが、主君はそれを許さずに閉門を言い遣わした後、二人を許します。
問題は、この七十枚の薄紙ですが、主馬は最初の四五枚を読んですぐに閉じてしまいます。ところが、それを受け取った主君は、半時と言いますから約1時間、じっくりとこの七十枚を読んでいます。ということは、この七十枚の内容を知っているのは、義左と殿(主君)のみということになるんですね。(若衆は手紙をちゃんと読みませんね。巻一の四「玉章は鱸に通はす」の甚之介も権九郎の恋文をぜんぜーん読まなかったし。。。)
いったい、この七十枚には何が書いてあったんでしょうか。これは想像(妄想)するしかありませんが、ここには若衆には分からない、義左と殿、つまり念者の立場と言って良いでしょうが、そういう大人の事情が書かれていたと見たいですね。
ま、ともかく、この七十枚の内容は読者も想像するしかありません。そうした形で物語を開いたままにするところが、また西鶴の筆のニクイところです。畑中千晶さんが『男色大鑑』は「何かを書く・表現するという行為に含まれる強い衝動のありか」を捉えていたと言われるのも、こうした部分を指しているのでしょう(『これからの古典の伝え方-西鶴『男色大鑑』から考える』142頁、文学通信)。
そして、もうひとつは(この七十枚とも関係があるのですが)、この殿から許しを得た義左がなぜ江戸ではなく、葛城山の近く、榎の葉井に隠れ住んだのか、です。この榎の葉井については、色々な解釈が可能かと思いますが、大事なのは「江戸」でなく「榎の葉井」である点だと思います。「榎の葉井」は種々の注釈にもあるように、古来から歌われた古(いにしえ)の地名ですが、洗練された和歌などとは違った古態を遺す催馬楽(さいばら)にも登場することです。これに対して江戸は新興の大都市、元禄時代にはまだ京・大坂には及ばないものの、東都として日の昇る勢いで発展していた土地です。
まさに真逆な土地柄だったわけですね。では、なぜ義左は新旧極みの旧の方を選んだのか。
ここからは私の想像(妄想)ですが、一つは江戸に行けば、主馬との思い出に翳りが生じると考えたのかも知れません。江戸は全国から美貌の若衆が集まります。むろん、主馬より優れた若衆に簡単に出会えるとは思えませんが、でも、その主馬に会ったのが他ならぬ江戸だったわけですから、義左が知らず知らずに他の若衆の面影を胸に宿すことだって起こらないとは言えませんね。
そこを断ち切って、主馬との思い出に生きようとしたのであれば、歴史にうずもれる古(いにしえ)の土地、榎の葉井はうってつけの場だったと思います。
そこで問題となるのは、やはり先の七十枚に何が書かれていたのかです。むろん、それは依然として具体的には分かりませんが、主馬に手打ちになる直前に義左が書き終えたものだとすると、自らの恋心を若衆に打ち上げずに、その若衆の手によって落命するという、自らの忍ぶ恋の顚末を書き綴ったものであったことは間違いありません。
幸か不幸か、その忍ぶ恋は山吹の化身たる主馬によって、打ち破られることになりますが、主君たる殿はこの日記の全貌を見て、忍ぶ恋が完結しなかった以上、二人を結ばせてやるのがせめてもの情けと考えたはずです。二人が不義に及ぶことを重々分かっていながら、二人に蟄居閉門を命じた殿の心中はそこにあったのでしょう。
普通、私たちは、この物語を読む時、主馬が義左の命を救ったところ、主馬の優しい心遣い、に感動します。しかし、義左の心はもう一段深いところにあったと考えられます。それは七十枚をすべて読まなければ分からない世界です。そして殿のみがそれを理解できた。それは義左と殿が同じ年長者の念者という立場だったからです。主馬にはまだまだ分からない世界で、元服し逆に若衆を守り愛する立場になってから初めて理解できる世界ということになりましょうか。殿が最後に主馬に丸袖を送ったのはその促しもあったでしょうか。(この若衆に見えない念者同士の深いつながりは、巻四の三「待ち兼ねしは三年目の命」の卯兵衛と清蔵にも描かれています)
この薄紙七十枚に何が書かれていたのか。これは西鶴が読者に投げかけた謎ですね。私は以上のように考えましたが、さて皆さんはどのようにこの謎解きをされますでしょうか。
なお、この授業が終わった後に、大竹さんとトーマスさん、そしてTomokoさんと四人で、それこそ四方山談義になりました。その中で、中国のドラマ『君、花海棠の紅にあらず』(きみ、はなかいどうのべににあらず)の話で盛り上がりました。
私はまだこのドラマを見ていないのですが、大いに興味を持ちまして、これから視聴する予定です。
私がとくに興味を抱いたのは、内容もさることながら、京劇と男色(ブロマンス)がテーマになっている点ですね。
よく知られているように、中国の京劇は歌舞伎と同じように男性が女形を務めていました(文化大革命以後、女性が舞台に立ったと言われますが)。それがどの時代まで遡るのか、またどのように展開し、かつ市井の男色とどう関係していたのか。そこに私の興味は集中しています。
というのは、明末清初の時代(日本の江戸時代初期)、南京を中心に男色風俗が中国沿岸部に相当広く深く広がっていたことが分かっているからです。この沿岸部というのが重要で、ここと日本、琉球、台湾とは海を隔ててお隣の関係でしたから、男色文化で深くつながっていたはずです。その具体的な様相と、そこから京劇にどうつながったのかを知りたいと思っています。たとえば、同時代の琉球には若衆舞、台湾(対岸の福建にも)には七子班*という少年舞踊がありました。
ま、それはともかく、視聴することが先ですね。視聴したら、また報告しますが、若衆研で鑑賞会などをやるのも楽しいかと思います。
*七子班については、後のものですが『台湾省通誌』(巻六)に、
民国十二、三年。筆者が嘗て艋舺(台北万華区)に居た時に、此の戯(戯曲)を目撃した。まず彩旦(女形)が登場するが、その顔は朱の塗紛を施して、頭に珠飾を満たしていた。歳はわずか十二三歳で、ただ歌を唄って美しく品をつくる。その嬌態は人を迷わし、時に舞台の下の見物人に向かって秋波を送り、見物人がこれを良しとして見定める。これを「落科」と言った。(原文漢文、染谷訳)
とあります。
染谷智幸(若衆文化研究会)


